2014年7月18日金曜日

貧乏神に資産運用の相談をしたりしなかったり。

神社には様々なご利益がある。

縁結びとか、出世とか、病気平癒とか。

私もそうだけれど、大抵の人は何となくお祈りしていると思う。
初詣であれば有り体な内容―例えば、家族の健康や健やかな毎日をとか、その年に立てた目標に関することとか・・・を。または、何がしかの目玉商品的ご利益のある神様であれば、その内容に沿った願いを・・・。


神或いは神社って、病院に似ている。

診療科目がズラリと並んでいる大きな病院もあれば、例えば、ガンや耳鼻など特定の病気や部位を専門とする病院もある。大きな病院の中にも特定の疾患で有名な専門医もいるし、町の小さなクリニックの一人の医師が幅広い病気を診る場合もある。(日本の医師免許は専門科目別ではないので何の診療科目を掲げてもいい)

神社も特定の悩みに専門特化しているとこもあれば、かといってこの分野の願いしか聞かないというわけでもない。
でもやっぱり、特定の悩みがあれば、その分野の専門のエキスパートにお願いしたいというのが人情だ。


しかし、色々な神社を回って調べ歩くうちに、あることに気がついた。
それは、非常に多くの神社において祭神が入れ替わっている、ということ。

例えば、
「Aという神社は●という神さまを祭っているが、もともとは■という神さまを祀っていた」
なんて事が、結構な割合で存在している。
入れ替わっていることが公になっているのであればまだマシな方で、コソッと、いつの間にか・・・或いは有無を言わさず強引に入れ替わりさも最初からそこに居たような顔をして元の神についてはほぼスルーして、なんてケースも。


別の問題もある。

神社の神さまというのは、本来その場所にずっといらっしゃるわけではない。
依り代となる御神体というものがあり、そこに神は宿り得る。神さまは神社、というか御神体にずっと常駐・在席しているわけではなく、鈴を鳴らしたり祝詞を唱えたり、一連の儀式を経て御神体なりその神性な場なりに呼ぶことができる・・・ということで、このご神体は神にかかわる非常に重要というか、神社が神社たる存在意義にかかわる不可欠なものだ。
その御神体そのものが昔と変わってしまっているという事も多いようだった。
その理由も、災害で紛失したとか盗まれたとかいう事情だったり、明治の国家神道統一の過程で鏡に統一されたりと、色々な理由があるようだが・・・。


神さまも入れ替わっている。
御神体も入れ替わっている。

これって・・・。


そもそも。
私たちは神社でお祈りをするわけだけれども、そもそも誰(何)に向かってお祈りをしているのか。何かをお願いするにしても、そのお願いをする相手について知ろうともせず、何も考えずに祈っていた。願っていた。

これはつまり、病気になってしまったので腕のいいお医者さんに診てもらいたいと思いながらも、自衛隊の幕僚長に診てもらいに行ったなんて事をしているようなものだ。・・・いや違うか。


ともかく、そのことに気づいて以来、神社で何事か祈願する場合にはよくよく考えてするようにしている。
相談する相手間違えた、なんて失敗は日常にもよくある事だから。

2014年5月21日水曜日

ペプシの桃太郎がカッコイイ。

ペプシのCMの桃太郎がカッコイイ。
桃太郎を演じるのは、俳優の小栗旬さんだ。



※上の動画がリンク切れの場合はこちら

これはカッコイイ。
カッコイイが、これはもう完璧に日本じゃないな。
大陸的。

赤い岩、砂漠、ここは中央アジア?それともアメリカ?
舞台も場所も設定も、全てが日本的ではない。

それにしてもお金がかかってそう。
どうせなら映画化してくれないかな。

ハリウッド版 MOMOTAROU。

日本文化の焼き直しというか、リメイクというか、リライトというか、いや再発見というべきか・・・。これは新しい可能性を秘めていると思う。私たちに馴染みの桃太郎が、鬼が、キジがサルが犬が、あんな風になるなんて。溶岩の鬼、すごく強そう。

クリエイターって凄い。


私たちが当たり前に感じている“日本”というものが、時に海外から評価されることがある。
「もったいない」なんて、その代表格だと思う。

昨年、東京五輪で話題になった「お・も・て・な・し」もそうだ。


ところで、滝川クリステルさんがプレゼンで、この「お・も・て・な・し」を表現した際、彼女は手を合わせた。あれを見たとき、私は強い違和感を感じた。
日本人が普通、手を合わせる時というのは、どんな時か。

拝む時と、食事の時・・・つまり、死に対して(あるいはそれを超越したもの)だ。


神さま仏様を拝む時、死んだ人に向かったとき、食事でその食材の生命に感謝するとき、いずれも生命の死の部分か、或いは生死を超越した存在に対して手を合わせる。日常で、例えば挨拶や感謝の折に手を合わせるとすれば、それは仏教徒くらいではないだろうか?というか、挨拶のように手を合わせるというのは、日本ではなくて、何だか東南アジアとか上座部仏教、テーラワーダという感じがするのだが。
・・・・・・と思って強い違和感を感じたのだが、あのジェスチャーは意外にも、国外はもちろんのこと国内でも広く受け入れられた。

だけでなく、以前からあの手を合わせるという行為は、東洋好きの海外ミュージシャンが公演の際に行うことがあるし、それどころか、日本のロックバンドのボーカルがやっているのを見たこともある(ちなみに私の好きなミュージシャンだった)。
まぁ、彼らがブッディストである可能性もあるけど。


これは、日本の再発見か。
それとも、日本のリメイクか。

いや、日本の再発明かもしれない(この言葉は、末木文美士氏だか山本七郎さんが使っていたような・・・)。



「お・も・て・な・し」を考えたのも、外国のコンサルタントだったらしい。冒頭の桃太郎のCMも、アメリカの会社、ペプシだ。

どちらにせよ日本というのは外の文化と交渉しながら育まれてきたのも事実で、これから育つ新しい日本文化には是非期待したいと思う今日この頃。

・・・だいたい、日本のしきたりとか言われているものや、神社の作法にも、割と新しいものも多いのだし。神道だって、今の形作られているあれは、結構新しいものでしょう。


いい意味で、日本的なよい文化が広まればいいけれど。


日本はハイブリッドなのだ。


DNAでたどる日本人10万年の旅―多様なヒト・言語・文化はどこから来たのか?


日本人になった祖先たち―DNAから解明するその多元的構造 (NHKブックス)


でも大切にしたい古くからの価値観もあるよね。壊されなければいいけれど・・・。

ヤマアラシともぐらのジレンマ

鼻血が出た。


先週の週末ののことで、私にとって実に数十年ぶりの鼻血だった。
本当に久しぶりの鼻血だが、不思議なものであの鼻の中を「すー」とか「つー」とか流れるような、いわゆる“鼻血の予感”は、すぐにそれだとわかった。

覚えているものなのだな。
そんなに何度も鼻血を出すタイプでもなかったのに。


ぶつけたわけでもなく、のぼせたわけでもなく、チョコレートを食べたわけでもない。
どこか特別な場所に行ったわけでもない(一応)。
出血の原因に思い当たる節はない。


偶然だが同日、私の親類も鼻血が出したらしい。
上根一族は鼻血に呪われたか?
鼻血にご利益のある神社って、あったっけ?鼻つながりで、天狗にゆかりのある神社(武蔵第六天とか)とかがいいかな?


折しも漫画「美味しんぼ」で鼻血描写が話題になっている昨今。
鼻血の話題は出しにくい。

あちらの議論は非常に熱い。議論が熱すぎて怖い。
臆病な私はおいそれと近づけない。下手なことを言ってしまうと、クラレッタよろしくつるし上げられてしまうのではないか。


批判する側もされる側も、互いが正義感を背負っているのだから、コトは非常に複雑だと思う。
双方それぞれが正しい、困っている人を救いたいと思っているはずで、しかしだからこそ、お互いの主張を受け入れられない。


そこには分かりやすい勧善懲悪はない。


考えてみれば多くの社会的な問題は、完全に一方が悪というケースは少ないのだと思う。


フィンランドメソッドの北川達夫さんだか進研ゼミの山田ズーニーさんだか忘れたが、以前読んだ本にこんな事が書かれていた。

森を削って道路をつくる計画があったとする。 
反対派は、自然が壊される、環境が汚染される、本当に作る必要があるのか数字を出せ、と反対する。 
推進派は、道路により経済が活性化する、雇用も進む、人の生活あっての自然保護ではないか、物流だけでなく救急搬送など社会的な意味もある、と応戦する。



どっちかを完全に論破しての解決なんてないのではないか。


このような対立というのは、捕鯨の問題も、戦争の問題も、靖国神社参拝の問題も、いずれも同じようなところがあるのかもしれない。


どちらかが100パーセント善で、もう片方が完全に悪。そんなケースは珍しい。


それは、社会や国際問題だけではない。


神話や昔話だってそうかもしれない。


記紀神話に綴られている神武東征や、ヤマトタケルの活躍、スサノオの話も、そう。

もうしかしたら、退治された彼ら・・・→ 長脛彦やクマソタケルやヤマタノオロチにだって・・・戦うだけの理由があったのかもしれない。彼らが背負う正義があったのかもしれない。

というか、当然あっただろう。
勝てば官軍で、勝者の記した書は割り引いて見る必要はある。


公的な文書である記紀の話だけにとどまらない。

桃太郎や一寸法師といった馴染みの昔話だって同じかもしれない。鬼には鬼の正義があったのかもしれない。てことは、実は以前も書いたことがある。
節分に参加できずに考える正義と倫理の問題



前々から考えている、というか気になっているのは、

「正しいことならば、相手を傷つけてもいいのか」

ということ。


例えば、あの鼻血描写の問題でも、ずいぶんヒートアップしたやり取りがあったようだ。ジャーナリストが原作者をリンチしょうと呼びかけたというような事があったらしい。
「美味しんぼの件は、見せしめにぴったり。(略)祭りは『血祭り』の方が興奮するし。嫌いな人民裁判に、私も乗ろう。風評被害撲滅の大義のため」
「私は漫画という文化に敬意を持つが、社会に意味のない漫画なら見せしめのためにリンチをして、吊るし上げても、影響はないだろう。だから心置きなくリンチして木に貼付けにしてやりましょう」



まったくの推測で書くが、きっとこのジャーナリストは普段はいい人なのだと思う。正義感にあつい真面目な人なんだろう。人が怒るというのは、大抵の場合、その人が大切にしているもの(人、価値観、考え方、物など)が傷つけられるからで、このジャーナリスト氏にとって守りたい人たちがいたのだろうと思う(で、きっとそれは、今回の件で批判する側とされる側の双方が守りたいと思うものに、実は大きな違いはないんじゃないか・・・と思いたい)。


私もそうだが、自分が正しいと信じていることであると、相手を批判し、非難し、あるいは議論するにあたって、感情が先行して必要以上に攻撃的に、傷つける言動に出てしまうことがある。正義感によって失われる冷静さ。しかし、こうなってしまうと、場合によっては正義感は邪魔でしかない。


「正しいことならば、相手を傷つけてもいいのか」

悪は倒すか。懲らしめるか。
傷つけられて困っている人のために人を傷つけるのか。

これって、反戦主義者が暴力に訴えるような・・・いや、救急車が傷ついた人を急いで搬送するために次々と人を跳ねて進むようなものだ・・・いや違うか


以前も書いたが、「ヤマアラシともぐらのジレンマ」という話がある。

<とても寒く厳しい冬。1匹のヤマアラシが、もぐらの家族を訪ねてこうお願いした。
「外にいたら死んでしまう。冬の間だけ一緒に洞穴の中にいさせてほしい」
もぐらの一家は、ヤマアラシの頼みを聞き入れました。けれども、その洞穴はとても狭いため、ヤマアラシが洞穴の中を動き回ると、その度にもぐらたちは針に引っ掻かれてしまう。
とうとう我慢できずに、もぐらたちはヤマアラシに洞穴から出て行ってくれるようにとお願いをする。
ところが、ヤマアラシはこのお願いを断り、こう言ったのです。

「ここにいるのが嫌なんだったら、君たちが出て行けばいいじゃないか。」

普通に読めばヤマアラシにムカっとくる話だ。
よし。ヤマアラシさんをたたき出すか。

しかしこれは、倫理と道徳を考える思考実験だ。


ここで考えたいのは“どちらが正しいか”という問題ではない。もっと別の何かだ。


A + B =A&B ?
このまま一緒に暮らすのは無理だ。
もぐらさんが傷ついてしまう。

では・・・

A + B =AorB ?
どちらかが出て行くのか?

それしか解決策はないのか?


しかし今ここで求めたいのは新しいソリューションだ。
A + B =C

AでもBでもない、Cという新しいソリューション。そういった考えを導き出せるチカラが求められている気がする。

何が考えられるか。
何を考えることができるのか。


どちらが正しいのか間違っているのか、という正義の問題ではない。


久しぶりに鼻血を出したことで、タイミングがタイミングだっただけに、色々と考えすぎたようだ。やっぱりのぼせているのかもしれない。










鬼ヶ島には悪い鬼がいるらしい。

悪い鬼?じゃあ、いい鬼もいるのか?

それはわからない。

彼らの素性、生態などについては分からないことが多い。


しかし、聞くところによると人々を襲うらしい。

てことは、悪い奴だな。

よし。退治するか。

人々を襲う鬼を、俺が襲ってやる。

しかし、実査に見てみると、裸に虎のパンツ一丁なんて、実に質素じゃないか。

綺麗に着飾っている貴族様とは大違いだな。・・・(未完)



ところで最近流れているペプシの桃太郎のCMが斬新

魔王とクラレッタのスカート

個人ではどうしようもない時代の大きな流れというのがあるかもしれない。

自分の思うことと異なる大きな流れが押し寄せた時、私は水に流されないでいられるだろうか?


小説「魔王」の中のエピソードとして、「クラレッタのスカート」という話が出てくる。


魔王 (講談社文庫)

クラレッタは、イタリアの独裁者でファシストの創始者と言われるムッソリーニの愛人。
ムッソリーニと愛人クラレッタは、広場で処刑されることになる。

2人は処刑され、民衆が囲む広場にその遺体は引きずりだされ、逆さづりにされる。

その時、逆さづりにされたクラレッタのスカートがめくれてしまう。それを見て群衆に笑い声がおこり、中には卑猥な声や罵声を浴びせかける者もいた。

その時。1人の男性が群衆のなかから足を踏み出した。そのまま淡々と進み、梯子をのぼり、クラレッタのスカートを直す。

下手をすると、興奮した群衆に殺されかねない行動だった。

この「クラレッタのスカート」の話を引き合いに、この小説の主人公はこう言う。

「恐怖とか、まわりの雰囲気に負けたくない。馬鹿でかい規模の洪水が起きた時、俺はそれでも、水に流されないで、立ちつくす1本の木になりたいんだよ」


いや~私にはきっと無理だろう。
流木になるどころか、流されまくって翻弄され、途中でどっかに埋もれてしまう小枝程度じゃないか。

つくづく、嫌な時代にはならないでもらいたいものだ。


日本の歴史の中で、このような“馬鹿でかい洪水―雰囲気という名の”が起こったのって、私の思いつくところで言うと、「廃仏毀釈」と「戦争前後の様々なコト」あたりではないだろうか。

特に廃仏毀釈は坊さんまでが進んで仏像を破棄した例もあり、また仏教だけでなく、様々な民間のカミもその対象となってしまった。土着の古くからのカミでも、記紀神話につらなる神道の系譜から外れる神は、その対象となってしまった。神社でも祭神や御神体の交代が起こり、それ以前と以後に大きな断絶が起こるに至った。


しかし、日本人というのはたいしたもので、暴走する人がでる一方、その大きな流れに流されない立派な人というのも何人もいる。
クラレッタスカートをなおせる人だ。

廃仏毀釈の流れの中でも、戦時の時でも、そんな人が一定の割合でいる。


立派だ。
そんな人になりたいものだ。


ところでこの本(↓)は必読だと思う。
でないと、また日本は敗れるかもしれない。色々な意味で。
右でも左でもなく、ただの悪人をのさばらせることはできない。



日本はなぜ敗れるのか―敗因21ヵ条 (角川oneテーマ21)

2014年5月1日木曜日

咳の病と、子どもの病気に効く神様

少し前に、熊本県で鳥インフル発生とニュースになった。

日本国内での鳥インフル確認は、確か東日本大震災があった年以来だと思う。
鳥インフルは言葉通り鳥が感染するインフルエンザであり、人間が感染するインフルエンザとは異なる。しかし、マレに人にも感染することがあるらしく、というか人間の感染するインフルエンザは鳥や豚など動物のインフルエンザが変異したものであるため、鳥のインフルエンザが発生するたびに警戒されることになる。ひとたび人に感染するウイルスに変異してしまえば、それは人間にとって未知のウイルス=新型インフルエンザとなる。抗体のない人類は感染拡大の脅威に直面する。

鳥のインフルエンザは、強毒型という症状の重いものから軽いものまで幾つかの種類がある。症状の軽いものは人間が感染しても通常のインフルと変わらないが、症状の重いものだと致死率6割以上というものまである。

鳥から人への感染がマレだとはいえ、人とウイルスの接触回数が増えるということは変異の機会が増えるということだから、厳重な警戒が必要となる。

私は鶏肉と玉子料理が大好きなので、このような騒動は困る。十分な加熱処理をすれば問題ないはずで、私も相変わらず鳥料理を食しているが、馴染みの飲食店に影響が出ないかと心配だ。


鳥インフルエンザとは別に、今、中東の方で懸念されているのはMERSコロナウイルスだ。致死率30%とも言われている。
1~2年前からサウジアラビア国内で警戒されいたこの新種のウイルスは、10年ほど前に中国を中心に世界中で猛威を見せたSARS(サーズ)と類似したウイルスだ。

世界中で、今もっとも感染拡大が心配されている感染症の1つだと思う。


インフルエンザにしろマーズコロナウイルスにしろ、どちらも高熱や呼吸器の炎症、肺炎のような症状が出る。

咳の病だ。

毎年流行する季節性のインフルエンザとは異なり、場合によっては致死率がふた桁レベルに達し、人々を襲う。
これらの新種のウイルスは、人の流れとともに広がる。
第一次世界大戦の時に、戦争による人の流れとともに世界中に拡散したスペイン風邪は、感染者6億人、死者は5000万人に達し、戦争以上の死者を出した。


グローバル化だとか言っている現代では、一度新しいウイルスが誕生したら、瞬く間に世界中に広がるだろう。

無論、このような感染症の流行は現代だけに限らず、過去にも何度もあったはずだ。


咳のカミさま、というのがある。

このカミさまは決まって私たちに身近な存在であり、むかしからアチコチにいらっしゃった。
やはり、こういった感染性の病の流行は、今と比べ物にならないくらいの切実なる恐怖だったんだろう。

そういった病の魔の手から助けてくれるカミさまだ。


東京都内にも、有名な咳のカミさまがいる。

例えば、墨田区の弘福寺というお寺の、爺婆尊。爺さんと婆さんの2体の石像だ。頼むと咳の病に効くという。

もともとは大名の屋敷にあったもので、百日咳で難儀する児童の親は、門番に頼んで拝みに入れてもらっていたという。
願掛けの仕方も変わっていて、こんな感じだ。

まず、必要なのは豆や霰餅の炒ったもの。これを煎じ茶とともに備える。
そして、始めに婆様に咳を治してくださいと頼み、次に爺様に「おじいさん、今あちらで咳の病気のことを頼んできましたが、どうも婆どのの手際では覚束無い。何分御前様にもよろしく願いまする」
そう頼んで帰ると、殊更よく全快するという。


江戸の頃には、なぜだか爺婆は仲が悪いとされていて、並べると必ず片方が倒されるということから、両者は離れて置かれていた。しかし今ではそんなことはなく、仲良く並んでいる。今では咳に効くという生姜の飴も売られているので、そう高くもないものなので試してみるのもいいかもしれない。

こういった咳に効くカミさまは、なぜだか「咳のおば様」だとか「しわぶき婆」、「姥神」だとか呼ばれて、各地にある。

例えば、私の住む川口市には私が把握しているだけで、3箇所に「咳のおば様」がいらっしゃる。西新井宿の姥神様、芝のしゃびき地蔵、慈林のばん神さま。それぞれ呼び名は異なるが、いずれも咳の病に効くという。私の知るだけで3箇所なのだから、実際にはもっとあるのかもしれない。で、1つの市内でこれだけあるのだから、全国各地にあるに違いない。


ところで、なぜこのカミさまは咳のカミさまとなったのか。
大抵の場合、このカミさまは婆さんである。

婆さんのカミさまが咳に効くカミさまへと至った訳としては、こんなことが言われている。

「咳の病を治してくれる神「咳婆(シャビキサマ)」は、もともと関の姥神であった。だからセキババは村の辻や山の峠、橋畔などに祀られ境を守る神であった。その関が咳に通じるところから、人の咳の病ばかり祈るようになった。」


関所の関ということで、村境などに祀られ、塞神(さえのかみ=道祖神)の「さえ」=塞(ふさ)ぐも同じではないかと言われている。セキという音が、咳に通じるという日本によくあるダジャレのようなパターンだが、こうした信仰が良くない風邪の病などが流行った時から広がったのではないかと思う。

私などは単に塞や関という意味以外に、石神の石の意もあったのではないかと思うのだが、しかし、単に音が似ているというだけでそう信仰され始めたのではなく、もともと姥神にそう信仰される下地があったのではないかと思われる。


では、姥神とは何か。

姥神と呼ばれるカミさまは、よく井の上、池の岸、泉のほとりなどに祀られていることが多い。咳に効く、とされない場合の「姥神様」でも、水と関連する場所などに多く存在している。例えば有名どころであれば浅草の近く。かつて姥が淵という池があり、悲しくも残酷な説話が残されている。石枕、一ツ家の伝説と呼ばれる話だ。

お話は浅草寺草創の頃のこと。浅茅ケ原の一軒家に老女と若い娘が住んでいた。道行く旅人に一夜の宿をかしては夜な夜な寝静まりに旅人の首を落す。そして身ぐるみはぎ取ってしまう。殺された人999人。これをみた浅草観音は若衆に変身して老女の一軒家に泊る。老女は例によって旅人をしとめるがあけてみてびっくり。殺したのは旅人にあらずしてわが娘なり、老女は大いになげき苦しんだ。千人目のお客で彼女は仏眼を開き、大きな竜となって池の中へ消えていった。この池を後世、姥ケ池というようになった。(台東区


他にも各地に姥神もしくは類似する話が残っていて、「咳のおば様」の例として前述した西新井宿の姥神様も、もとは姥が池と呼ばれる池に由来する説話を持っている。いずれも水辺が近くにあり、悲しい話がついてまわる。

この姥神とは一体なんだろう?

これを考える上で参考になるのは、各地に伝わる大師講の説話である。
お大師様、つまり弘法大師(空海)が各地をまわり、杖でつついたりして水が湧き出るという類の伝説だが、「きっと近くの村にこういう言伝えがあって、それにはいつでも女が出てきます。その女がほんとうは関の姥様であったのであります」(柳田国男)という。

どういうことか。
端折って説明すると、「だいし様」と読んでいたのを文字を知る人たちが弘法大師と思うようになった。もとは「だいし」に漢字をあてるとしたら「大子」と書くのが正しく、これは「おおご」と言って、大きな子。すなわち長男という意味であった。この大子は児の神(神の子)であり、姥神は御母、御叔母といったような大子と親しみのある関係であった。

大子はその字や音から、時代とともに聖徳太子や弘法大師などへと移り、姥神も「うば」=女のことであったものを、老女のように考え出し、仏教の普及とともに奪衣婆、山姥などのイメージがついていった。しかし、双方とも決して新しい神ではなく、相当に古いカミなのではないか・・・と言われている。

確かに、姥神(咳のおば様)の多くは単に咳の病に効くだけでなく、子供の病に効くという話がセットになっている。

姥神とは子どもを愛するカミなのだ。


ところで、何故「うば」ガミと呼ぶのか。
これは私の想像だが、もともとは「産神(ウブガミ)」から来たのではないか。
産神とは出産の神とされ、箒神をそう呼んだり、また産土神(うぶすなかみ・・・土地の神として祀られている)と関連があるとされている。

この「うぶ(おぶ)」とは「たましい」と同じ意味だと思われる。

かつて海辺の村ではお産のたびに海近くに産(うぶ)小屋(産屋)を立て、その下には砂を敷いた。この砂をウブスナと言うのではないかとの話もある。

ともかく、姥神が水辺にいること、子の神との関連があり、更には子どもを愛する神であること。「うぶ」と「うば」の音の近さなどから考え、そこから姥神となってのではないか、と思える。


子どもな7つまでは神のうちと言われ、昔は生き延びるのも大変だった。タチの悪い流行病などが出ると、それを乗り切るのも運次第だったろうと思う。流行病はいつも境界の向こう側、他所の地域から入り込んでくる。だからこそ、その境界を「関の姥神様」に守ってもらう必要もあったのだろう。

姥神様はとても身近な場所にひっそりといて、そしていつでも子ども達を見守ってくれている。



今また鳥インフルエンザやMERSコロナウイルスという、油断ならない病気が影をチラつかせている。
神頼みとともに、最新の予防医療の力と、身近な感染症予防の知識で「いざ」を乗り切ろうではないか。


人体に危ない細菌・ウイルス 食中毒・院内感染・感染症の話 (PHPサイエンス・ワールド新書)

マスメディアが報じない 新型インフルエンザの真実 (中公新書ラクレ)

【参考】
日本の伝説 (新潮文庫 や 15-2)
日本の神々 (岩波新書)
埼玉県伝説集成―分類と解説 (1974年)

2014年4月28日月曜日

こけしの由来と、名前の意味

少し前に、(別の)ブログで「聖(日知り)とてるてる坊主の末路」という記事を書いた。

てるてる坊主は雨ざらしにされ、人々の願いを一身に背負い、雨が止まねば首をチョン切られてしまう悲しい存在。
見た目は可愛いてるてる坊主だけれど、見方によっては違った側面が見えてくる。

私たちの日常の、割と近くに存在しながら、しかしよくよく考えてみると何だか理不尽な、あるいはゾッとするような習わしが割とある。

そしてそれらは何故か、いつも子どもたちの近くにある。

例えば、「とおりゃんせ」。
例えば、「かごめかごめ」。

たとえば、「こけし」。



「こけし」は子供顔の頭部と、円柱の胴体で構成された木の人形で、東北地方に多い。昔は一家に1つくらいはあったのではないか。日本の代表的な人形といっていいと思う。

しかし、よくよく考えてみれば「こけし」のカタチは手足がなく非常に特徴的だし、そもそも何故「こけし」と呼ぶのか?

この名称は、考えてみれば不思議で、一体どのように付けられたのか。

「こ」と「け」と「し」。

由来は何か?


調べてみると、<「こけし」とは、「子消し」である>という説が出てきた。
どういうことか?

つまり口減らしや堕胎によって亡くなってしまった子供の供養としての「子化身」・・・こけしである・・・・・・、という説である。

何とも恐ろしい話だ。
姥捨て山とは反対で、それの子供版か・・・。

子供を消すから、「子消し(こけし)」。
消された子供を供養するために、子の化身として木の人形である「子化身(こけし)」をつくる。


いかにもありそうな話だ。


しかし・・・。


「こけし」は「子消し」である。こう書くと字面から言っても最もな理由のように感じるが、実はこの説には根拠がないという。ウィキペディアによると、この説の提唱者は民俗学に通じているわけでもなく、この説が提唱される以前には、それを裏付ける文献等もないという。

そもそも「こけし」という名称も、実はある狭い地域で命名されていたものであり、同じ「こけし人形」でも、地域によっては「きぼこ」「こげし」「でく」など様々な名称で呼ばれていたという。そのうち「こけし」という名称が代表的なものとして広まった。

口減らしの供養のために作られた「子消し」の存在の、可能性自体は否定しない。しかし、「子消し」が「こけし」そのものの由来であるとするのは無さそうだ。

では、なぜ「子消し」説が流通したかというと、「こけし」という名称から、さもありそうな字面だから・・・ではないだろうか?

こけし → 子消し

語呂があっているというか、字面があっているというか、何となく納得してしまう。

昔のコミュニケーションの主体は話言葉だったのだけど、文字が流通するようになると、文字の影響を受けて本来の意味が変わってきてしまう、というのはよくあることだ。音の響きに漢字を当てられると、その漢字の持つ意味の影響を受けるようになる。


地名や人の名前、物の名称などもそうで、大抵の場合、綺麗で良い印象の文字を当てようとする。

例えば東京の某所に「鶴前橋」という橋があるのだけれど、今度新しく橋をかけ変えることになり、その名称が「鶴舞橋」となるらしい。

このように徐々に名称が変わってしまったり、その文字から新しい何かがイメージされてしまったり、似た名称から影響を受けたり、という事が、実は結構あるのではないか。

特に口承で伝わってきたもの、たとえば昔話や地名には、そのような影響を受けるモノが多いのではないかと感じる。


特に地名。
地名にはマイナス要素(例えば湿地や災害由来など)が含まれている場合があるが、そんな意味が含まれていると、不動産売買に支障が出る。ゆえに、良いイメージのものに改名されたりすることが結構多い。何とかの園とか、何とかヶ丘とかはほとんどそんな裏事情があるのではないか?新駅が作られる時の駅名も同様である。



美しい名称をつけて、それの価値をあげようという目論見があると邪推する。


それとは反対に、名前の意味が忘れられて、それ自体の存在も消えてしまう場合がある。


例えば、私の住む川口市に道合(みちあい)という場所がある。
ここの、とある場所にはかつて庄陣場という名前の清らかな池があったそうで、この池は近くの農民たちからとても大切にされていたそうだ。「この池を粗末にすると“たたり”がある」とされていた。そして、この池は地元に伝わる説話の舞台にもなっていた。

しかし、「庄陣場」とは一体何か?
思うに、もともとは「精進場」だったのではないか、と推測する。
精進場とは禊を行う場所であり、同じく精進場と呼ばれる池は全国にいくつかあるようだ。

禊をするということは、宗教的な行為をするだけの聖域のような場所が近くにあったはずで、それゆえに「この池を粗末にすると“たたり”がある」とされていたのではないかと思うのだが、「庄陣場」では意味が通らない。本来の伝承では近くに塚などもあったようだが、池も塚も、現在では消滅してしまっている。同時に、そこに付随していた説話も消えかけている。恐らく近い将来、忘れ去られるだろう。


間違って意味が付帯されて広がるものもあれば、意図的に意味をすり替えようという場合もある、一方で、意味が失われて存在自体が忘れ去られていくものもある。
名前とは不思議だ。


あなたが住んでいる地元の、目立たない地名なんかに気をつけて欲しい。


バス停の名前、橋の名称、小さな神社の名前。
誰にも気づかれていないが、もしかしたら貴重な物語を宿しているかもしれない。
気づかれるのを待っているのかもしれない。



地名は災害を警告する ~由来を知り わが身を守る (tanQブックス)



誰かに教えたくなる「社名」の由来 (講談社+α文庫)



こけし てづくり手帖 (レディブティックシリーズno.3722)



2014年3月26日水曜日

再生エネルギーと、アマテラス。

石油は、現代の私たちにとって必要不可欠なシロモノだ。これを使いすぎていることによって、地球温暖化だとかいろいろ言われている。

さて、ここで質問です。

「人類が始まって以来、我々は石油をどれくらい使ったでしょうか?富士山の容量をバケツ1杯として答えてください。」


回答は意外だった。
答えはこちら


ところで今、太陽光エネルギーがブームのようだ。

資産家や、地方の土地持ちの人たちのところには、複数の会社からソーラーやらないか、土地を貸してくれないか、という誘いの声がかかっているらしい。

今なら高額で太陽光エネルギーを買い取ってくれる、らしい。
さらに、グリーン投資減税で一括償却できるという、よくわからないけどお金持ちや企業にとって嬉しい仕組み。


太陽の光をエネルギーに変える。
その発想はとてもいいと思うが、何やらバブルの臭いも微かに漂う。

制度に問題はありそうだけど、何度も言うが、太陽の光をエネルギーに変えるという発想はとても良いと思う。
ちなみに先ほどのクイズを出されていたリンク先の先生は、光触媒という、これまた太陽光を活用した技術を発見した先生だ。光触媒も、酸化チタンに太陽光を当てることによって、抗菌作用や待機浄化などの作用を起こすことができるというもの(らしい)で、日本で生まれた技術だ。


いいじゃないですか。
太陽の活用。

なんせ、私たち日本は、日のもと。日の昇る国ですよ。
日本の総氏神は、伊勢神宮・日の光をあまねく照らす、天照大神(アマテラス)なのだから。


ところで、アマテラスといえば皇祖神、国を代表する神として有名だけれど、実はもともと地方神であったという話は、意外と知られていない。

最近のニュースによると天皇、皇后両陛下が式年遷宮があった伊勢神宮を参拝されたとのこと。しかし、これは現代になってからのことで、かつては古代より、天皇家が伊勢神宮に公式参拝されたことはなかった。参拝は明治天皇になってからのこと。

祖神(先祖神)なのにおかしい、というのは誰もが持つ印象だと思うけれど、その理由はというと、ようするに元々はアマテラスは地方の神だったから、というもの。

直木孝次郎氏がこの問題で「日の神をまつる地方神の社であった伊勢神宮が皇室の氏神社の地位にのぼったのは奈良時代初期前後である」という見解を発表して広い支持を得たのはすでに四十年以上前のことで、その後この説はほぼ通説として定着している。

ということで、アマテラス以前はタカミムスヒ― 高御産巣日神(高皇産霊神)が皇祖神であった、その理由と背景とは・・・ということが書かれているのが、この本。


アマテラスの誕生―古代王権の源流を探る (岩波新書)
先ほどの直木孝次郎氏の引用も、この本のP78に書かれている。

アマテラスは元々皇祖神ではなく、地方の神だったというのは通説になっているにも関わらず、あまり一般に知られていないと思う。
私もこの本を読むまで知らなかった。


伊勢神宮やアマテラスをめぐっては、色々な謎や憶測が囁かれている。例えば、

・記紀神話のなかで、時にアマテラスは男神のような描写がある・・・といったアマテラス男神説
・既出だが、なぜ天皇家は先祖神にも関わらず、伊勢神宮に参拝しなかったのか
・なぜ先祖神を、遠く伊勢の地に祀ったのか

などなど。

「アマテラスの誕生」を読むと、これらの謎が氷解していく。

タカミムスヒが元の先祖神だったとすると、わかりやすい。

日本古代では、他の国々とは違い、王(天皇)が自ら先祖神を祭ったことはなかったと長い間言われてきた。しかしそれは、アマテラスを先祖神とした場合のことであって、タカミムスヒは年二回、天皇が自ら祭っていたのである。それが「月次祭」である。(P70)

月次祭(つきなみのまつり)とは律令によると6月と12月の年2回行われていた国家的祭祀だが、字のとおり、元々は毎月行われていたのだろうとされている(本居宣長)。

さらにタカミムスヒは普段どこで祀られているかというと、宮中の八神殿という神殿で、専属の大御神巫 によって常時手厚く祀られていたという。


それだけの地位にあったタカミムスヒだが、一般的にはあまり知られていない。が、私にとっては個人的に、身近に感じていた神だった。というのも、第六天について調べていた時、都内のいくつかの神社で、御祭神を第六天から高木の神に変えていたからで、高木の神とはタカミムスヒの別称。なぜ第六天が高木の神に、という謎はまた別の機会にゆずるとして、そんな経緯もあって高木の神については関心を持っていた。

それがまさか天皇家の祖神だった経歴があろうとは。

この本は硬派なわりに読みやすく、何より面白いのでオススメだ。
・アマテラスはどのような神だったのか
・4~5世紀の日本と周辺国との状況はどんなだったか
・タカミムスヒとはどんな神か
・日本の氏族についての考察
・ついでに、国譲りをした大国主とはどんな神なのか
などなど、興味のつきない内容となっている。


しかし、当初はタカミムスヒが天皇家の祖神だとしても、我々にとってアマテラスは長く親しみのある神である。しかも、祖神になる以前、アマテラスが天照大神ではなくオオヒルメだった頃から広く日本人(?)に親しまれていたカミであり、弥生時代から続く古く歴史のある土着のカミである。

そんな日のもとの国なのだから、太陽光エネルギーについては癒着や裏取引など間違ってもないよう、お天道様に恥じない仕組みで進めていってほしいものである。


ちなみに、冒頭のクイズ、リンク先を見れない人のために回答↓

Q.富士山と同じ大きさのバケツがあったとして。石油は、人類始まって以来、何杯使ったでしょうか?1杯、10杯、100杯、1000杯、1万杯?








A.答えは、
 1杯の半分。

意外と少ないと思いませんか?