2014年2月3日月曜日

節分に参加できずに考える正義と倫理の問題

毎度毎度、行きたい行事や展示会や講演会があっても、逃してしまう。
昨年10/1~12/1まで開催されていた日光御成道展もそうだったし、1月31日の南直哉師の仏教・私流もそうだ。

そして今日も同じ過ちを・・・。

少し前から「節分お化け」という行事に興味があり、吉原で毎年行われるというので、ぜひ見に行きたいと思っていた。
が、本日節分を迎え、はっと思い出し、ググってみると、すでに2月1日に行われていた模様。

とってもがっかり。。。

節分については、以前、ハロウィン=サヴィン祭との共通点から、節分お化けに興味があったのだ。
ハロウィンには鬼が出る!~日本の行事との共通点~

“まず、日本の古い暦では、新年は立春から。新年の前日たる大晦日に行われていたのが、節分、つまり追儺(ついな)、鬼やらいの儀式だ。そして亡くなった死者が家族と過ごす日といえば、お盆。そして、かつてはお正月もご先祖様と過ごすとされていた。また、お盆には「地獄の釜の蓋が開く」とされていて、それによって死者がやってくるとされている。死の世界との境界がなくなるという点において、ハロウィンと、とてもよく似ていると思う。
(中略)
これ(節分お化け)についてはよく分からない点が多いのだが、節分お化けとは、江戸時代から昭和初期にかけて、京都祇園、大阪北新地や東京吉原などの花柳界を中心に行われていた節分の行事だという。子供が大人の、大人が子供の格好をしたり、異性装をしたりして、普段と違う姿をすることで、節分の夜に出歩く鬼をやり過ごし、寺社へ詣でるのだという。
この異装の考え方は、ハロウィン=サヴィン祭の姿とよく似ていると思う。そして、節分はかつては大晦日に行われていたのだから、そのほかの点についても、考え方として共通点がとても多いと感じる。”
現在行われているのは復活させた行事であり、途中に大きな断絶があるために行事に参加したからといって大きな発見があるとも思えない。

というより、「見たいものを強引に発見してしまう」可能性も無きにしも非ず。

しかし、現場に行くことによって刺激を受けたり、新たな視点を発見したりという事はよくあることで、特に行事やイベント、お祭りが嫌いな私にとって、今回の「参加したい」という気持ちはとても大切なものだったように思う。

来年はぜひ見に行こう。
と言って、また忘れる気がする。


ところで、完璧に話がそれるけど・・・。
大勢で豆をぶつけたうえ、(お前なんか)外へ行けこっち来んなというのは、何だか鬼さんが少し可哀想な気がする。

様々な民族や文化が衝突する昨今、人間と鬼との共存を考えることはとても有意義なことだと思う。

ヤマアラシのジレンマという有名な話がある。

<寒空にいる2匹のヤマアラシがお互いに身を寄せ合って暖め合いたいが、針が刺さるので近づけないという>

この話を更に発展させた「ヤマアラシともぐらの話」という、倫理・道徳を考える上で面白い思考実験がある。

話はこうだ。

<とても寒く厳しい冬。1匹のヤマアラシが、もぐらの家族を訪ねてこうお願いした。
「外にいたら死んでしまう。冬の間だけ一緒に洞穴の中にいさせてほしい」
もぐらの一家は、ヤマアラシの頼みを聞き入れました。
けれども、その洞穴はとても狭いため、ヤマアラシが洞穴の中を動き回ると、その度にもぐらたちは針に引っ掻かれてしまう。
とうとう我慢できずに、もぐらたちはヤマアラシに洞穴から出て行ってくれるようにとお願いをする。
ところが、ヤマアラシはこのお願いを断り、こう言ったのです。

「ここにいるのが嫌なんだったら、君たちが出て行けばいいじゃないか。」>

アリとキリギリスの話に似ている。
似ているけれど、これは教訓じみた勧善懲悪で完結する昔話ではないし、身勝手とも思えるヤマアラシの行動に腹を立てるだけの寓話でもない。

スッキリする正解なんて出せない中で、この問題をどう考え、どう受け取り、どのように対処するかを考える材料だ。

やっぱり、ヤマアラシには出て行ってもらうか?
それとも??


で、ヤマアラシ=鬼ではどうか。
桃太郎が唯一の答えか。

おそらく全国各地で豆をぶつけられている鬼(父?)の姿を想像しながら、倫理・道徳的な思考実験に発展させつつ、今夜は豆をつまみに酒を飲みたいと思う。

日本酒、鬼ころしとか。。。

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